希望の文学
─宇野浩二の『枯木のある風景』
 
「あの木を見るがよい。上のほうから枯れていく。人間も同じだ。頭のほうからだめになる」。
ジョナサン・スウィフト
 
 「文学の鬼」とも「夢見る人」とも形容される宇野浩二が一九三三年に発表した『枯木のある風景』は私小説でもなければ、告白でもない。それは人生を想起するままに、子供が積み木を組み立てていくように、記述したものである。だが、書き手の体験を再構成しているわけではない。体験という名の下に囲い込まれた領域は、中世という時代の区切りが解釈によって移動するように、所有者が命名するために極限化された事実上ではなく、権利上の出来事である。囲い込みは、十八世紀後半のイギリスにおける食料増産の目的で議会が奨励して行った第二次囲い込みが農業以上に、工業の発達を促進してしまったことによって産業革命を引き起こし、農業の衰退を結果として生んだように、その出来事の前後を理解することへのきっかけとなるにすぎない。『枯木のある風景』を構成する原理はプロットでもなければ、主題でもなければ、登場人物の交錯が描き出すドラマでもなく、想起、すなわち思い出すという行為そのものである。さまざまな断片的な声がアラベスクのように表われ、一つの声のもとに構成されてはいないこの作品は、想起の原理のもとに代数学や力学的には構成不可能なものを統合している。書き手は慎重に、確かめつつ、過去の体験を思い出す。作者が、私小説や告白の作品に見られるような自分自身ではなく、自らの身代わりの人物を選んだのは、プラトンがソクラテスという代理人を立てたごとく、想起することによって忘却するためである。なぜなら、「私には、忘れてしまったものが一杯ある。だが、私はそれらを『捨てて来た』のでは決してない。忘れることもまた、愛することだという気がするのである」(寺山修司『忘却』)からだ。記憶を想起し、忘却することは愛することである。この記憶は、そのため、アンリ・ベルクソンが、『物質と記憶』において、主張した物質から絶対的に独立しているものではない。
 こうした解釈はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』にはふさわしいだろうが、宇野の作品にはどうだろうかという疑問がわき起こるかもしれないけれども、この主張が決して論拠のない独断ではないことは、『枯木のある風景』の次のような記述が告げている。
 
町をはずれてしばらく行くと、彼の目が気にいった(あるいは何かの記憶のある)風景を見つけたらしく、突然、立ち止まった。それは高畠といって、むかし春日の神官の邸のあったところで、今は、道の片側だけに、その形見の土塀がとぎれとぎれにならび、その間にこれも庭園の形見の樹木が散在している。−−が、これは島木が数年前に書いたことのある高畠の風景で、いま島木が目の前に見出した風景は、それらの点景がことごとく深い雪におおわれているために、これがあの高畠かと思われるほど、別の魅力で島木の目を引きつけた。
 
 『枯木のある風景』は、このような平易な単語が、果てしなく続く長いセンテンスにのって流れていく。そこでは、意識的な記憶と無意識的な記憶が交錯する中、回想と現前が、そして想像と知覚が交互に入れ換わる。それは一つの幾何学であるが、センテンスという線とボキャブラリーという面によって織り成されている。『枯木のある風景』の世界を構成する時間と空間はそのセンテンスとボキャブラリーにある。彼の息の長いセンテンスは、志賀直哉に代表される私小説の短いセンテンスとは、著しく対照をなしている。
 志賀直哉は、『暗夜行路』の「序詞(主人公の追憶)」を、次のような文体によって書いている。
 
ある夕方、私は一人、門の前で遊んでいると、見知らぬ老人がそこへ来て立った。眼の落ち窪んだ、猫背の何となく見すぼらしい老人だった。私は何ということなくそれに反感を持った。
老人は笑顔を作って何か私に話しかけようとした。しかし私は一種の悪意から、それをはぐらかして下を向いてしまった。釣上がった口元、それを囲んだ深い皺、変に下品な印象を受けた。「早く行け」私は腹でそう思いながら、なお意固地に下を向いていた。
 
 ボキャブラリーが豊饒でない点は『枯木のある風景』と同じであるとしても、この『暗夜行路』に代表される私小説の基づいている原理は「何となく」や「何ということなく」という気分であり、気分のおもむくままに書かれるそのセンテンスは決して長くはならない。彼らの時間や空間は、そのセンテンスとボキャブラリーが表わすように、狭い。そこでは真であることは善であり、善であることは真であるとされている。志賀においては気分はいつも「反感」や「悪意」というアイロニーとして表われ、判断はアイロニーによって決定される。志賀を支えているのは、正確には、気分ではなく、「反感」であり、「悪意」である。私小説は、気分を作用する主体とし、それ以外を客体とした古典力学的な図式に基づいた世界を提示し、あくまでもアイロニー様式としての近代小説の一変種にすぎない。
 一方、宇野にとって、時間や空間は気分的なものでも物理学的なものではなく、肉感的な記憶である。そこでは空間的なものは時間的なものへと、そして時間的なものは空間的なものへと置換される。宇野において、記憶とはある一つの全体性を持った流動的な経験であり、空間と時間は切り離すことはできない。記憶は知覚によって変容され、想像力によって構成される。宇野の記憶はいつでも構成されると同時に変容される。知覚と想像力の交錯するその子供の饒舌さを思い起こす切れ目ない長いセンテンスや平易なボキャブラリーは、子供のたどたどしい饒舌が一つの真理であるように、一つの真理なのだ。
 しかし、この想起は、魂が出生するときに忘却してしまった真・善・美のイデアを思い出し、真理を認識するというプラトン的な輪廻転生に基づくものではない。子供がセンテンスが長くなりボキャブラリーが平易になったとき、そうであるように、「陶酔」が持つ真理である。「この感動が昂ずるときには、主観的なものは消え失せ、完全な自己忘却の状態となる」。すなわち、『陶酔』したとき、「人間はもはや芸術家ではない、芸術品となったのである」(ニーチェ『悲劇の誕生』)。子供が何かに熱狂すると、言語化する前に「陶酔」してしまい、何かを伝えようとしているけれども、その熱狂しているということは伝わるのだが、その内容がわからない。その「陶酔」自体において熱狂がわき起こしたその言語が、誰かに伝えたいコミュニカティヴな要素という熱狂の中の覚醒のために、真理である。
 従って、『枯木のある風景』は美の世界でもなければ、善の世界でもない、真の世界を描いている。しかし、この真理は宇野が作家になると同時に獲得されたものではない。それは、『枯木のある風景』を執筆したとき、宇野が身につけている。と言うのも、『枯木のある風景』以前の作品では見られる主要な手法が、『枯木のある風景』においては、ほとんど使われていないからである。
 宇野の出世作は、「そして私は質屋に行こうと思い立ちました」という印象的な文章から始まる一九一九年に発表した『蔵の中』である。同じ年には菊池寛の『恩讐の彼方に』や有島武郎の『或る女』が公表されている。当時の歴史的・社会的背景はちょうど第一次世界大戦と戦後恐慌との端境期にあたる。一九一八年に登場した原敬によって本格的に政党内閣が成立し、外交的には、ヴェルサイユ条約調印や国際連盟加盟などの成果をあげ、国内的には、産業開発や高等教育普及政策を推進し、普通選挙運動や労働運動などいわゆる大正デモクラシーが高揚、選挙法を小選挙区制採用へと改正したが、同時に、第一次世界大戦による好況の雲行きが怪しくなり始め、東京市疑獄事件など政治腐敗が進行している。そういう時代に表われた『蔵の中』は広津和郎から聞いた近松秋江の次のようなエピソードをモデルにしている。秋江は着物好きで季節が変わるごとに着物を新調し、季節がすぎるとそれを質屋に持って行くのだが、次の年にその季節がきても、それを出さず、また新調しては、質屋へ持って行くことを繰り返しているうちに、質屋にはずいぶん多くの着物を預けてしまった。ある年の秋の虫干しのとき、彼は気になったので、質屋へ出かけ、そこの蔵の二階を借りて、質入れした自分の着物類を細引に吊し、その下に、これまた質入れした自分の布団を敷いて、そこで昼寝を楽しんでいる。この逸話にかつて自分が「ヒステリイ」を病んだ女に悩まされた体験を加味してできあがったのが『蔵の中』である。
 『蔵の中』は、『枯木のある風景』の文体とは違って、読み手をからかうような文体によって書かれている。
 
これで、たまたま希望をもって思い立った質屋に行くという喜びが、それに案外な楽しみさえ加わったかと想うと、そのすべてがわずか三日で遮断されてしまったわけなのです。それにしても、その原因は、彼女と私とが、店の者たちの手前もかまわず、蔵の中で話し合ったからといって、主人が止めたからでしょうか。それなら、まだ私に希望がのこされているわけです。だが、あるいは、それは、彼女が私にあの最後の言葉で気持ちをわるくしたからでしょうか。それだとすると……私は、また、これから、毎日、この台所のとなりで、聞きなれた、磯節や、田植唄や、越後節になやまされねばならないのでしょうか。皆さん。(おや、もう聞き手が一人もいなくなりましたね。)
 
 『枯木のある風景』が寡黙で重々しい語りであるのに対して、『蔵の中』の好奇心と悪意に満ち溢れた語り手はアイロニカルな軽い口調で、一般に「饒舌体」と呼ばれている通り、饒舌である。それは笑いを読み手に挑発するが、その笑いはダイアローグ的ではなく、あくまでもモノローグの持つおかしさである。「皆さん」や「読者諸君」といった呼びかけが、初期の作品では用いられているけれども、彼にとって意外な反応をしてくる他者ではなく、街頭演説がそうであるように、自意識の延長としての読者でしかない。彼の饒舌はあくまでも独白である。「宇野の出現は」、広津和郎の『年月のあしおと』によると、「最初から新進作家らしい嘴の黄いろさがなく、どこか人を食ったような面構えだったので、それに反感を持ったような批評が比較的多く出たが、批評家に誉められながら消えて行く作家が多い中に、悪口を言われながらぐんぐんのし上がって行ったのは、作家としての宇野の強みであった」。『蔵の中』に代表される初期の作品は、現実を適確に認識するための経験的自己に対する言語的自己による一つの方法的比喩、すなわちロマンティック・アイロニーである。つまり、芥川龍之介が「諧謔的抒情詩」と名づけた『蔵の中』に代表される初期の作品は現実のパロディー、真理のパロディーなのだ。
 ところが、彼の作品は、『枯木のある風景』を境に、文体においても、構成においても、大きく変化する。宇野の作品は『蔵の中』の初期、『枯木のある風景』の中期、『思い川』の後期というように三期にわけられる。『枯木のある風景』は、大阪出身の画家小出楢重がモデルで、小出と宇野の共通の友人である鍋井克之から聞いた小出が死ぬ一、二年前から才能が冴えていくと同時に、肉体が次第に衰えて、死んでいったという話をモデルにしている。『蔵の中』にしても、『枯木のある風景』にしても人から聞いたエピソードをモデルにして書かれた作品であるということに違いはない。しかし、その二つの作品は本当に同一人物が書いたものか信じることができないほどの断絶がある。宇野は『蔵の中』は「あんまりごてごてしてた」が、今度は「もっとあっさりしたとこ」を、『枯木のある風景』において、書いているのだ。
 二つの作品の差異は『枯木のある風景』の中で語られている絵画によって、寓話的に、意識化されている。
 
下書きが進んでゆくと、それにはある程度の絵の具を使っていたので、島木が意図した構図と色調がしだいに画布の上に浮かびあがって来たので、空想は古泉のことから寄り路して、ふと島木の心の目に、かつて見た雪景の油絵の中から、特に二つの絵がうかんだ。一つは外遊中に見たモネの雪景、他は四五年前の新興協会展覧会で見た古泉の雪景である。一と口にいうと、モネの雪景は色彩を特徴とし、古泉のは素描を特徴としている、いいかえると、モネのは雪の美しさをあらわし、古泉のはその冷たさをあらわしている。かつて島木も初期のころはモネ流の絵を書いたが、その後の島木はなるべく単純な色彩で言わば南画風の情緒を油絵で現わそうと志している。したがって、今の島木はモネの雪景よりの古泉の雪景の方に心をひかれた。とはいえ、島木の画風と古泉の画風とは島木が風景画を得意とし古泉が人物画を得意とするほどの相違があった。
 
 「雪の美しさ」を表わすモネ流の絵は『蔵の中』に代表される初期の作品であって、「その冷たさ」を表わす古泉の絵は『枯木のある風景』に代表される中期の作品に対応している。モネの絵は視覚的であり、価値領域に属し、古泉の絵は触覚的であり、事実領域に属する。つまり、『枯木のある風景』は真の世界を表わしているが、『蔵の中』は美の世界を描いている。
 美から真への関心の転換は大きいが、『蔵の中』と『枯木のある風景』の間の時期に大きな出来事が宇野の身に起きている。宇野は、一九二七年六月、精神に異常をきたし、箱根で静養した後、しばらくして、精神科の医師でもあった斎藤茂吉の紹介で、小峰病院に入院し、八月末には退院する。入院中の七月二十四日に、宇野の病気を心配していた芥川龍之介が、「ぼんやりとした不安」という言葉を『或旧友へ送る手記』にしたためて自殺している。岩波文庫や円本などによって大衆文化が繁栄を迎えたこの時代に、田中義一内閣が、内政においては、金融恐慌をモラトリアムによって処理、社会主義運動を弾圧し、外交では、山東出兵を行い、植民地行政を担当する拓務省を設置するなど軍部の台頭が準備されている。宇野の精神疾患は何であったのかはっきりしない。宇野は『枯木のある風景』を発表するまでほとんど執筆活動はしていない。彼は、『枯木のある風景』後、再び精力的に作品を発表し、それから肺結核で亡くなるまで、精神に異常をきたすことはほとんどない。
 ところが、作家活動を再開し、『枯木のある風景』以降の作品の文体は『枯木のある風景』の文体と異なっている。
 宇野は『枯れ木のある風景』以後の『思い川』(一九四八)には次のような文体を用いている。
 
三重次は、小柄で、丸顔の方で、そのころはもう二十歳くらいであったが、どちらかというと愛くるしい顔だちの女であった。特徴は、眉毛がふとくて濃く、大きな済んだ目に何ともいえぬ愛敬があったが、きかぬ気らしいところがあった。それに、まつ毛が長く、鼻が高く、うけ口であった。それから、目をたえず急がしくしばたたく癖のようなものがあった。そうして、身なりも、持ち物も、地味で、目立たなかったけれど、なかなか凝っていて、贅沢であった。
 
 「まつ毛が長く、鼻が高く、うけ口」というハプスブルク風の容姿であるならば、「大きな済んだ目に何ともいえぬ愛敬があった」ことはわかるとしても、「眉毛」は、当然、「ふとくて濃く」はなく、細くて薄くならなければならないはずであり、AV女優の琴野まゆが示している通り、「丸顔の方」であるわけもないが、とりあえず納得しておこう。センテンスも比較的短く、ボキャブラリーは平易であるが、まず、ここで宇野が「、」をひんぱんに使っていることが目につく。それは『蔵の中』にも、『枯木のある風景』にもなかった特徴である。一般に、文学作品の言語は話し言葉に近づくと、「、」が多くなる傾向にある。例えば、口述筆記スタイルで書き表わす田中康夫の作品のセンテンスには「、」が非常に多く用いられている。宇野の場合、口述筆記であるとしても、「、」はブレスではなく、リズムを刻む。宇野の作品は音楽的である。それはジャック・オッフェンバックの『天国と地獄』のようにではなく、軽いテンポに、抒情的なメロディーをした歌謡曲である。
 篠田一士は、『夢見る部屋の構図』において、『蔵の中』から『思い川』に至る宇野の作品を活性化しているのは「言葉の音楽」で、「近代日本の小説言語における音楽創造」だと次のように述べている。
 
 宇野の小説言語の魅力がなににもまして音楽のそれだというのは、彼が説話体という話法を用いたとか、あるいは、短歌について並々ならぬ嗜好をもち、鋭い鑑賞力を示したということよりもさきに、もっと本性的な彼自身の言語感覚、おそらく、東京の言語圏では到底経験できないような関西言語圏における、日本語の円滑自在な響きの歴史が生かされたからだろう。
 
 宇野の音楽性を篠田が指摘する「関西言語圏」に論拠を求めることはできない。『蔵の中』や『思い川』はアップ・テンポであるのに対して、関西言語の音楽は、谷崎潤一郎の『卍』を読めば明らかなように、怠惰な雰囲気、ラルゴである。今でこそ関西便は早口という印象が強いが、古典落語では、上方落語においては、概して、早口の江戸弁に対しておっとりした大阪弁として扱われている。音楽的と言っても、それは雅楽的ではない。宇野が作品を書いたころにはアメリカのポップ・ミュージック、ジャズやブルースなどはすでに日本でも聴かれている。大衆文化が広まった大正時代には、活動写真や蓄音機はかなり普及している。坂東妻三郎が時代劇スターとなり、『船頭小唄』(一九二三)や『籠の鳥』(一九二四)が流行する。一九二五年にはラジオ放送も始まり、関西弁がエンタツアチャコの『早慶戦』によって全国に流れている。音楽は大正以後身近なものになっていく。昭和初期になると、エノケン一座や新宿ムーラン・ルージュなどの軽演劇、『影を慕いて』(一九二八)や『酒は涙か溜息か』(一九三一)などの古賀政男の古賀メロディーが流行している。さらに、戦後になると、歌謡曲はより大衆に身近になり、特に、『りんごの唄』はその当時の日本人を励ます歌として、物がない分、社会や精神の風通しのいい敗戦直後の日本を大下弘がその歌詞から思いついた青バットで戦前には否定されていた打法によって青空にホームランを放ち、明るくしたように、流行ったのである。宇野の作品に見られる音楽は、時代に応じて、傾向が変化している。『枯木のある風景』は古賀メロディーである。『蔵の中』は浪速節ではなく、壮士節や演歌(艶歌)、すなわち川上音二郎のオッペケペー節や添田唖蝉坊のラッパ節のようだ。政治小説が抒情的文学に変容したごとく、自由民権運動の政治演説の歌であった演歌が抒情歌になっている。『思い川』は『りんごの唄』の旋律を思い起こさせえる。私小説は、大正時代という世界と同時代性が獲得されたことによる俗っぽい時代において、大衆から支持されたジャンルであり、その時代の雰囲気を無視することはできない。
狂気に襲われたことを境に宇野の作品のスタイルは変容している。夏目漱石のように、作品を書くことによって自らの狂気を治療するということが宇野の中にはあったのかもしれないし、また宇野の作品に狂気が現存していることは認められるとしても、宇野の作品における芸術と狂気という問題を提起することに大きな意義はない。なるほど、狂気の持つ自己と世界との間の、あるいは自己と他者との間の親和=非親和作用をパトグラフィー的な観点から作品を読解することは有意義である。すでに『蔵の中』には、夏目漱石の『道草』と同様、「ヒステリイ」が描かれている。『蔵の中』において、「ヒステリイ」は二人の間の不仲から生じるのだが、「ヒステリイ」によって不仲は緩和する。「ヒステリイ」が二人の間を親和する。対他的な齟齬を倫理的な関係として解消できず、狂気によってしか、それを融和できないでいる。二人ともパトグラフィー的に考察できる位置にはいない。『枯木のある風景』では「神経衰弱」が登場してくるけれども、『蔵の中』の場合と違って、軽く言及されるだけである。「ヒステリイ」にしても、「神経衰弱」にしても精神病理学的にそう定義できるかどうかは別な問題として扱わなければならない。狂気は宇野に重圧を与え、彼はつねに狂気に向かい合っている。一度壊れてしまった精神を何とかまとめようとしている宇野の苦心が作品には見える。だが、自分の身にふりかかった精神の病の問題を解明しようとしていたようには映るが、狂気は彼に「にもかかわらず」というニーチェ的=ディオニソス的な意志−−狂気に襲われてしまった、にもかかわらず、私は幸せだったという肯定の意志−−を喚起させることはない。宇野は狂気に対して、子供のように、意欲的ではない。狂気は宇野の前にただ今までとは異なった現実として登場している。
 宇野は、『枯木のある風景』の中で、島木の口を借り、古泉を通して、狂気に至るプロセスについて次のように言っている。
 
 古泉を知っている人、古泉とつき合った人は、大てい、古泉を、剽軽の人、機智の人、 巧みな漫談家である、と想う。島木自身も、長い間、そういう人のように思いつづけた。 しかし、島木は、去年の秋あるいは一昨年あたりから、瓢逸は仮面ではないかと疑い出した。島木が一ばん初めにそれを疑い出したのは、古泉自身が悪縁と感じるほど打ちこんでいるところの古泉の絵に、古泉の談話や文章に充ちている剽軽や皮肉がほとんどあらわれていないことに気がついた時からである。そう疑い出してから、古泉の言行に気をつけてみると、古泉が、その仮面を、世間に出てかむっているばかりでなく、家庭にいてもかむっているらしい、と島木に思われることがたびたびあった。それ以来、島木は、ときどき、古泉を遠く離れて思い出すごとに、古泉はあの面のために窒息しはしまいか、と心配した、(それは本当にそうなったのだ、)例えばあの嫁を脅かすために鬼の面をかむった老婆が、その面が自分のかおにくッついて、悶死したという伝説のように。−−
 
 古泉に関する説明は宇野自身に対して指示しているわけだが、快楽的な態度は仮面であり、アイロニーによって、その背後には誰も知らない素顔があるにもかかわらず、仮面が素顔にはりついてとれなくなっているという思いは、別にこの主人公に限らず、多くの人が、その逆の形も含めて、日常的に感じている。あるがままの現実を肯定できず、ルサンチマンを抱いている生き方であろう。アイロニーは言語的な自己、すなわち言語によってかつ言語において存在する自己を用いて経験的自己を、背理法的に、まやかしであるということを明らかにするわけだが、それが言語的な自己自身の正当性を保証するものではない。アイロニーは積極的に真実を示すわけではないけれども、結果として、それを顕在化させる。アイロニーは真実と虚偽の機軸からは脱出することができないどころか、アイロニーを発する以前よりも、アイロニカルに、その問題系により深くとらわれることになってしまうのである。真実の否定の否定は真実の深化を促すことを提示するにすぎない。アイロニーは誰によりも、それを用いる主体に対してアイロニカルに機能する。アイロニーは自己同一的・自己回帰的・自己連続的であるため、それを主要な武器としたロマン主義が近代統一国家や言文一致運動として働く。ロマン主義は極端な主観主義であるが、しかし、アイロニーによって、ロマン主義は極端な客観主義にも連なっている。ロマン主義は主観=客観の問題系に閉じこめられている。主観的な判断は、自己肯定的基準によってのみ判断する子供が発した場合を除いて、歴史的・社会的に形成された客観的な判断に対する−−意識的・無意識的をも含めた−−アイロニーにすぎない。彼らは主観的判断を客観的判断として要求している。「実像としての生活を虚像化するということ」(寺山修司『演技』)をしたとしても、「虚像化」された生活が逆に「実像」となってしまうという悪循環が、アイロニーのもたらす迷宮である。
 宇野は、当然、そこでとどまらず次のように続ける。
 
そこで、島木は気楽に自分の考えをすすめた。−−家庭というと、島木は、古泉が多さかにいたころはときどき往復したので、その様子をほぼ知っているが、それは、八田が言うように、そんなじめじめしたものではなかった。それどころか、古泉の妻はかなり明るいてきぱきした性格であったから、絵三味にはいっている古泉は、家庭ばかりでなく、一切の俗事を妻にまかしきりにしたので、むしろ明るい家庭であった。ところが、この任しきりの度かあまりにすぎたので、古泉をもっともわるい意味の『父さん坊っちゃん』にしてしまったのではないであろうか。例えば、彼らが一しょに出て買い物をしても妻がその支払いをし、電車に乗っても妻が切符を買うことなどである。それが終に「さあ、お父さんこれこれの絵をお書きなさい、」「あの絵は私が何とかしますから、」という状態まで進んだのではないであうか、と島木は推量−−というより断定した。そういう事情を推量あるいは断定するようになってからは、あんな大胆な、あんな秀祓な、あんな鋭敏な、あんな独特な、頭脳と才能の所有者が、家庭にあっては『父さん坊っちゃん』の仮面をかむり、(まだ剽軽の方は救われる、)この二三年の間みずから好んで、家庭に罐詰になって、(いかにその家庭に罐詰になっている二三年の間に、)「画架の上の仕事だけ」に「思う存分の勝手気ままを遠慮なく振舞」って、二三年の何倍かの素晴らしい仕事(作品)を残したとはいえ、終に死んだ、−−それを漫画のような言い方をすると、頭ばかりが大きくなって、それを支える肉体が、頭か大きくなればなるほど、終にしだいしだいに瘠せ細って行って、終に大きな頭と大きな手だけ残って、その肉体がすーッと幽霊のように消えてしまった、−−ということを考えると、島木は、ただ暗澹たる気持ちになって、涙さえ出なかった。−−
 
 この宇野の主張は、私小説にありがちな一般論に終始する結論とは離れ、繊細かつ大胆である。これは彼を生きたいように生きさせればよかったのだという憤りを意味しているわけではない。自分のすることを先取られることによって、それは目先の居心地のよさを求めたことから、目の前にあったものにすがりついてしまった風の『22才の別れ』のようなことから生じた結果だが、彼は追いつめられていく。古泉にとって、妻はエディプス的な母となり、権威主義的な教師へと変貌する。妻が変わったのではない。関係が変容したのだ。古泉は、結果、去勢され、抑圧されていく。絵画は、結婚が転換点となったロベルト・シューマンにとっての音楽のように、「めまぐるしい気分の変化をつづけながら幻想をくりひろげるのではなく、一つの気分にとらわれた単調なものに変わって」(高橋悠治『ロベルト・シューマン』)。古泉のように、不器用だが個性的な人間もこの世にはいる。そういう人間に対して、生をおそらくもてあましているから、その生が無駄にならないように、一つの方向を決めてやれば、力を今まで以上に発揮できるのだと考えることは誤謬である。
 岡崎満義は、『プロ野球ヒーロー伝説』の「はじめに」において、宇野勝を例にして、人によっては、一直線的な生のあり方ではなく、広々とし漠然とした人生の中でもたつきながら、どこにいくのか見当もつかないほどヨタヨタとしなければ、力を発揮できない「不定形」な生のあり方もあると次のように述べている。
 
 一九九一年のシーズン限りで辞めた中日ドラゴンズ星野仙一監督に、ぼくはひそかに「×印」をつけていた。彼は中日を優勝させている。ファイトなき者は去れ、とばかりにケンカ野球を率先して実行して、ファンを喜ばせてくれた。常識的に考えればすぐれた監督といってもいいのだろうが、それでも「×印」だ。個性派・宇野勝の牙を、つまりは彼の個性、持ち味をすっかり削りとってしまったと思われるからだ。ごつごつとした岩の感触が失われて、波に洗われたスベスベの石になったような、あるいは骨つきの肉がたんなる赤身の肉になり下がってしまったような、そんな変わり方をしてしまった。
 宇野はお世辞にも“器用な選手”とはいえない。大スターでもない。イブシ銀でもない。遊撃手としては大きすぎる体をもてあますかのように、ダイヤモンドからはみだしてモタついている印象をいつもファンに与える選手だ。しかし、彼はエラーをするにしても、高く上がったショートフライをおでこに当ててしまうという前代未聞のエラーをやらかした選手である。「同じエラーでも、エラーの質がちがう。見せるエラーをやってくれる。やっぱりプロだ」と思わせるエラーをやってのけた男なのである。そして魅力の長打力。数少ない個性派なのだ。それが、立浪和義という小ぢんまりとまとまったバランスのいい早熟の、PL学園卒の少年が入団してくると、星野監督は宇野をあっさりショートからサードへコンバートしてしまったのである。
 宇野は多分、過剰な情熱をもてあましている男にちがいない。だからホットコーナーがむいている、というのはまちがいだ。サードは、「野球はすべからく攻撃である。守備もまた攻撃である」と単細胞的に考えられる男の職場である。宇野の情熱はそういうふうに形づくられてはいない。ショートとい漠とした広い守備範囲の中で、あっちに走り、こっちでころんだり、糸の切れた凧のようにユラユラ、フラフラ、不定形の守備をするのに相応しい男であり、情熱のあり方だった。それを火のように熱いというだけの守備位置に追いやった星野仙一は、だから「×印」なのである。
 何度もいうが、飛球を捕り損って、おでこにボールをあてるようなユニークなエラーをする選手は、そうザラにはいない。本人は不名誉なエラーで、早く忘れてもらいたいと考えているかもしれないが、ファンは決して忘れない。プロ野球を見て楽しむファンの記憶の中には、王貞治の868本のホームランと同じくらいに鮮やかさをもって、あの“おでこエラー”が刻みこまれているのである。プロフェッショナルのプレー〃見る楽しみは、そんなところにもある。
 勝つことのパターン化、マニュアル化が進みすぎて、ユニークな選手が生まれにくくなっているのではないか。そういう選手を追放するのではなくて、ユニークさを削って小ぢんまりまとまった選手につくりかえる体質改善(改悪?)が進行しているのだ、としか思えない。過剰なものは削りとって、抵抗のない流線型の選手になったほうが、チームのためにもなるし、本人もより長く生き延びられるというわけだろう。少なくとも、過監督は使いやすい。
 だが、ちょっと待っていただきたい。ここで昔からの二つの命題、二律背反的命題が顔をのぞかせる。いわく、「太く短く生きる」と「細く長く生きる」か。一見、自由に選択可能な二つの命題に見えて、その実、それはほとんど運命としかいえないもので、意志的に選択することなどできないものなのだ。結果として、人間はそのどちらかを選びとる、というにすぎない。
 ここでもう一度、宇野選手の場合にかえってくる。彼は太く短く生きるタイプの選手ではなかったのか。そういうスタイルを完成させるべきところを、星野監督の指示でコンバートされ、細く長く生きることを強いられたのではないか。単なる憶測だが、そう思う。不幸な形だ。
 野球選手は「投げて、打って、守って、走って」という行為をとおして自己表現を行っている。しかし、彼らの自己表現はそれだけでは十分ではないし、ファンと称する第三者の視線、そして記憶の中に定着させられることによって、はじめて自己表現の円環を閉じるのではないか。
 あの男は太く短く生きてしまった、もしその先長く生きていたらどうなったか、を想像することはファンの特権であり、幸福である。ファンは太く短い生(プロ野球選手として)のその先を想像することで、その男の野球人生を完成させるのである。プロというのはそういう楽しみをファンに与えてくれる存在なのではないか。
 
 これはプロ野球選手に限った事態ではない。文学者も画家も同じような憂き目にさらされる。大衆の世紀に生きるものの「運命」である。「不定形」な情熱に基づいた生は、一般には、理解されにくい。方向性が決められた瞬間に生が去勢されてしまう人間もいるのである。柔らかで脂肪分が少なく料理しやすいロース肉のようではなく、スペアリブのような生き方によって、生を初めて表わせる人間だっている。そういう生を持った人間の人生はその人自身で完結するのではなく、他の人たちの想起によって完成する。見るに耐えないこじんまりとした成功ではなく、見せる大いなる失敗、ユーモラスな満足を与える失敗というものが求められることが、確かに、この世にはある。
人は自分の人生を、その生を自由意志的に選んでいるかに思えていても、実は、運命的とも言うべき結果として選びとらされているのにすぎない。真っ赤に燃えあがる激しい炎のような生だけでなく、太陽のようなものもあれば、青白いガス・バーナーの火のようなものも、花火のようなものも、ネオン・サインのようなものも、ランプのようなものも、そして豆電球のような生もある。それぞれはそれぞれだからよいのであって、それぞれがそれぞれにまったく別のものを要求しても無理である。従って、狂気はそういうそれぞれの人生を完成させるところを、さまざまな人間関係やしがらみによって、さらに自ら思うがままに生きようとしたことによって、別のスタイルを強いられてしまったときに生じてくるのではないだろうか。
 主人公は『枯木のある風景』という「芭蕉風」の「写実と空想の混合酒」の絵と「写実一点張り」の作品である『裸婦写生図』の二つの絵に惹かれるが、それは宇野の狂気への姿勢がうかがわれる。
 
両方ともまだほんの下書きではあったが、さすがに島木の目はその二つの未完成の絵の特長を見のがさなかった。人物画の方は、古泉独特の鋭利な観察と適格な技法とはこれまでの古泉の絵に共通したものであるが、その構図は大胆不敵なものであった。これまでの古泉の人物画は、裸婦にしても、一般の人物にしても、一人の人物をさまざまの形にして、それを根は写実であるが、模様風に現わしたものであるが、今度のは裸婦と人物(自画像)とを一緒に取り入れている、−−くわしくいうと、裸婦を前景(画面の下方)に横たわらせ、背景の中央にそれを写生する横むきの画家(自画像)と、その画家と同じ大きさくらいの画架を対立させ、その背景の左側と右側に煙突のついた暖炉半分と腰掛半分とを対立させ、なお前景の裸婦の下に支那寝台の上部をのぞかせている、−−ざっとこういう古泉一流の模様風であるが、飽くまで写生に根を据えた構図であった。
島木は、その黒色ばかりで現わされた下書きに一種の凄惨さを感じて、側に古泉が腰かけているのも忘れて、それに見とれた。
 
 「それだけでは、やっぱり抽象的で君にだけわかっても、僕にはさっぱりわからんさか い、あの『郊外の風景』と今度の絵ェのちがいを、感じでなしに、君の目で見たちがいを説明してほしいな。」
 「よし、……」八田はちょっと目を閉じてから話し出した、「今度のんは、画面の下半分がまるで枯野の明き地、前の絵の花壇のあったとこに、大きな枯木の丸太が五六本、のさばるように、横倒しに転がっているんや。つまり、その枯木の丸太だけが、近景、つまり画面の下の四分の一ぐらいを占めているんや。何んのことはない『枯木の丸太の図』というような感じや。つまり、この異形な枯木の丸太が古泉君の絵心をそそった動機らしい。その証拠に、枯木の丸太のないとこは赤土と枯草だけの明き地の野原で、後画面の上半分は冬らしい冷たい色の空が占めていて、その空と枯野の間、つまり地平線は、あのバラック建ての平家と低い丘とで仕切られていて、あの野平家の前の往来と思えるとこには、二本の電信柱のかわりに、この絵では、ばかに大きな、これまた、異形な高圧線の鉄骨の電柱が立っていて、それが冬空を二分している。−−そうや、この空だけはやっぱり古泉一流の模様風になっていた。−−ところが、その電柱の上の方と下の方とに五六本ずつの電線が張られ、それが単調な冬空に横縞の模様の役をつとめ、その冬空は冷たい青と白と茶褐色の染め模様の役をつとめている。−−が、これは、僕のような専門家のいうことで、入井君、いま僕の言うたことを、目をつぶって、構図にして考えて見たまえ、それだけで十分妖気がさ迷うている感じが浮かぶやろ。……ところが、その上の方の電線の一番上の線に、黒い烏のようなもんが、ちょこりんと止まっているんや、入井君、それを何やと思う。……」
 「枯枝に烏のとまり……」
 「ちがう、そんな生やさしいもんやない。僕も初めは、ちょっと烏かと思ったんだが、 君、それが、人間やないか。僕が『鬼気人にせまる』感じがしたというたのが、今度こそわかるやろ、また僕が写実から象徴に……」
 
 『枯木のある風景』の文体は、『蔵の中』に比べて、枯木のように、やせ細っている。そのやせ方は異常である。そこからは「一種の凄惨さ」を感じさせるぞっとするような絶望的孤独から確かな誰かを求めるような声が聞こえる。『枯木のある風景』の風景にあるのは枯木である。「写実」的には枯れて徐々に死んでいくものが、「空想」による若返りをともなって、生を燃焼する。時間の流れは内的には記憶として、外的には老衰として共生している。相反するものがその絵の中に生きている。『枯木のある風景』の絵を彼の当時の現実とたぶらせることは可能であろう。連続性が絶たれてしまうと、それをつなげようと試みながらも、思いもがけないことによって破綻するが、また知らずのうちに繕い直されるというプロセスを、「写実」と「空想」が『枯木のある風景』という絵画の中で交錯するように、繰り返す。宇野には、治癒することを望みながら、病が心理学や精神医学的な手法で一般化させて治癒することによって失われていくありありとした今の生の感触を拒むことができない。統合失調症は、境界例が固有名詞への過度の拒絶であめのに対して、固有名詞への過度の固執を表わしている。固有名詞の不成立に苦悩する病に、そうしたこだわりを解き放ち、一般化することはその治療法として有効ではない。そこで宇野が選択したのは記憶をたどることによって回復するという方法である。それは想起することによって自らの問題を解明し、忘却することによって問題を解決する想起と忘却という「精神分析」である。宇野は回復するためによけいなものを殺ぎ落としてやせ細っていき、生きることができるギリギリまで痩せている。その文体は錯綜もしていなければ、混乱してはおらず、自己と世界の具体的な関係だけを知覚していることを表わしている。
 モーリス・メルロ=ポンティは、『知覚の現象学』序文において、ゲシュタルト心理学を参照にし、知覚を次のように説明している。
 
知覚は世界についての科学ではなく、それは一つの行為、一つのきっぱりとした態度決定でさえもなくて、一切の諸行為がそのうえに(図として)浮き出してくるための地なのであり、したがって一切の諸行為によってあらかじめ前呈されているものなのである。世界とは、その構成の法則を私が自分の手中に握ってしまっているような一対象なぞではなくて、私の一切の思惟と一切の顕在的知覚とのおこなわれる自然環境であり領野なのである。
 
 知覚はたんなる器官でもなければ、客観的世界を歪曲せず、そのまま正しく受容する作用でもなく、生の存在要請として「図」と「地」の配置を変えていくような「自然環境であり領野」を構成するものである。知覚は経験を変容する作用を持っているが、この作用は自意識によって規定できない。意識は自己と外界とのの調整器官であるから、知覚が感受した変化に応じて左右される。その変化は急激で、意識は、多くの文学者や哲学者たちが身をもって知っているように、その中で、無方向なまま意味を構成すると、混濁し、確定的な納得できる意味を見出せると、明瞭となる。新しい経験と古い経験は、絵画的比喩を用いるなら、前景と後景の意識による調整は苦痛をともなうことのほうが多い。ただ、「万物は流転し、世界は、変化することによって安息している」(ヘラクレイトス)。知覚は認識の基礎ではないのであって、想起や想像は、知覚をきっかけにして記憶に対する意識の方向性が定まり、始まり、主体は連想する。自己と世界の具体的な関係だけを、「一切の諸行為によってあらかじめ前呈されているもの」である知覚によって、把握しようとすることは自らの存在を支えているものをつかむ方向に向かうことにほかならない。つまり、『枯木のある風景』は精神的な障害以上のものからの回復を描いている。
 だから、主人公が選ぶのは、「写実と空想の混合酒」の『枯木のある風景』ではなく、『裸婦写生図』の方なのである。
 
島木新吉は、亡友の遺骸に黙祷してから、ずいぶん長い間、その二つの絵を、見くらべ、見つめた。
島木は、しかし、『枯木のある風景』にも異常な敬意をはらったが、『裸婦写生図』の方により多くの敬意をはらった。
 
 宇野が『枯木のある風景』ではなく、『裸婦写生図』の方に「より多くの敬意をはらった」理由はそれが基づいている「写実」性にある。知覚と想像力の拮抗において、通常、「写実」は客観世界を写しとる作用としての知覚の方に、「空想」は想像力の方に重点が置かれる。しかし、知覚もまた世界を構成する。それは、宇野の場合、正岡子規が「写実的」ではないと批判した直観的である「芭蕉風」の絵画を「写実と空想の混合酒」と表わしている事からも強調されよう。精神異常者にとって、世界に対する認識からいかにしても逃げることができないため、「写実」と「空想」の間に区別はない。彼らが恐れるのは現実ではなく、現実化した「空想」である。それは、目を閉じようが開いていようが、決して、消えることのない世界である。「写実」と「空想」は、この作品では、経験的・技術的な領域に限定され、意味作用にはまったく触れられていないことから考えても、字義的な意味と修辞的な意味のごとく物象的に対立しているわけではない。「写実」や「空想」は対象と対象指示の、あるいは言語と認識の関係のありようを意味している。
 江藤淳は、『リアリズムの源流』において、「写実」、すなわち「リアリズム」は一定の方法論を指すのではないと次のように述べている。
 
それは認識の努力であり、崩壊のあとに出現した名づけようのない新しいものに、あえて名前をあたえようとする試みである。いいかえればそれは、人間の感受性、あるいは言葉と、ものとのあいだに、新しい生きた関係を成立させようとする「渇望」の表現でもある。リアリズムという新理論が西洋から輸入されたから、リアリズムでやろうというのではない。
 
 「リアリズム」は、江藤淳によると、現に生きている世界への「人間の感受性、あるいは言葉と、ものとのあいだに、新しい生きた関係を成立させようとする『渇望』」が要求する表現形式を表わす。「写実」は経験論的姿勢であると言ってもいいだろう。『裸婦写生図』では異質な声が、たんなるミメーシスの作用ではない知覚を通じて、作者にとって必要な背景として構成されている。絵画の知覚は作者を中心として、裸婦や暖炉などを前景=後景のモデルにあてはめて描写している。「写実一点張り」の作品である『裸婦写生図』は小説『枯木のある風景』に始まる中期の作品であり、『枯木のある風景』の絵は『蔵の中』に始まる初期の作品である。宇野の「感受性」は、『裸婦写生図』に惹かれる点から、自分の生を思うがままに、現実へのアイロニーとして選ぶことはできないことを告げている。『枯木のある風景』は『裸婦写生図』に対するアイロニーにほかならない。主人公の選択は国木田独歩の『忘れえぬ人々』のような忘れてしまっても構わない人々が「忘れえぬ人々」になるというロマンティック・アイロニーではなく、その表現形式が自分自身が「感受」している世界に、経験論的に、ふさわしいからである。
 「写実」にしても、「空想」にしても、認識論的領域に属し、両者とも一つの対象を志向する意図的構造であり、事実の認知ではない。「写実」が物事をありのままにではなく、経験論的に、禁欲的に描くことを、また「空想」が想像的にではなく、観念論的に、快楽的に描くことを意味している。快楽的な表現形式が描くのは陽気で下品、粗野ながら、因習糾弾を目指し、歌い踊る底抜けの乱痴気騒ぎの軽挙妄動であり、他方、骨と皮になるまでにやせ細った禁欲的な表現形式の世界は実直で野暮、潔癖な悲壮感漂う荒涼とした、いつ果てるともない呟きすらも飲みこんでしまう静寂の世界である。
 風景画ではなく人物画を選択する点には、さらに重要な意味がある。宇野は、『枯木のある風景』には内面的な記述が一切ないように、風景以前に遡行している。風景は、ロマン主義文学から明らかなように、内面や心理の登場とパラレルである。
 エルヴィン・パノフスキーは、『象徴形式としての遠近法』において、古代芸術に関して次のように言っている。
 
古典古代の芸術は、純粋な立体芸術であった。これは、たんに見えるということだけではなく、手でつかむこともできるようなものだけを芸術的現実と認めるのであり、また素材の上でも三次元を占め、機能や均衡の上でも固体として規定されており、したがってつねになんらかの仕方で擬人化されている個別的要素を、しかも絵画的に空間的統一体に結びつけるのではなく、建築的ないし彫塑的に群構造に組み上げるものであった。
 
 「絵画的」や「彫刻的」、「建築的」は芸術の傾向を意味している。「手でつかむこと」はたんなる立体性を意味しない。それは、パノフスキーの指摘以上に、重要である。目に頼っていては立体をイメージすることは、盲目の数学者ボントルヤーキンが立体に関して鋭い考察をしているように、難しい。「見ること」は光を感受することである。「手でつかむこと」は、「見ること」以上に、人間の具体的生活にその基盤を置いている。料理の下ごしらえでは、「手」でなじませるのは必須である。と言うのも、「手」から出る塩分と油分の微妙な効果、その繊細な感触はいかなる道具を用いてもでないからである。「手」は、ときとして、目以上に繊細な器官となる。ただし、パノフスキーは「手でつかむこと」と言い表わしているが、厳密には、料理でも、スポーツでも、「手」でつかんでいるようでは不十分であり、「指」で扱えるようになって、能力を発揮できるのだから、「手でつかむこと」ではなく、「指」で扱うことと言い換えなければならない。ニーチェが古代ギリシアに隣接できた一つの理由は、彼が弱視であったため、「たんに見えるということだけではなく、手でつかむこと」を「芸術的現実」と認めたからである。西洋で、ナイフやフォークが使われるようになったのは、オリーブ・オイルとニンニクの香り漂うイタリア料理に代わってバターと生クリームをベースにしたフランス料理が西洋料理の中心的地位を占め始めたルネサンス以後のことである。西洋人はそれまでは「手」でつかんで食べている。モンテーニュの肖像画がなどに見られるヒダ襟が流行したことから、「手」では口に食べ物を運べなくなってしまったため、彼らはそうした道具を使用することになっている。「見ること」が「手でつかむこと」を駆逐している。ナイフやフォーク、スプーンなどで食べると、口に金気くささが広がり、料理の味を損ねてしまう。インドなど「手」で食事をする国や地方も少なくないが、「手」で食べるほうがはるかに味覚的である。知覚が意識され、その復権が唱えられるとき、彼らは、オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』がそうであるように、つねに「見ること」を中心とし、「手でつかむこと」は問題外にしている。また、「手でつかむこと」は、目隠しをして感触を味わうことが性的官能の一つであるように、目を閉じて、想像力の喚起を促す方法と扱われている。こうした想像力の重視は、「手」が目の代わりとして機能しているだけであるから、知覚に対する反措定にすぎない。「目に見えるもの」と「目に見えぬもの」はその認識の動機は、形式的には、同一である。「手でつかむこと」は容易にはできない。「手でつかむ」ことをしてみようとしても、ちょっと触れただけで、「手」をひっこめてしまう。それを何度か繰り返し、しっかりと「手でつかむこと」ができる。幼児にとって、「見ること」以上に「手でつかむこと」が重要であり、「手でつかむこと」ができるものが現実なのである。「手」が目や耳、口に勝るとも劣らないリアリズムを感受できることはヘレン・ケラーの伝記が告げている。
 
Tommy:
Welcome to the Camp, 
I guess you all know why we're
here.
My name is Tommy
And I became aware this year
 
If you want to follow me, 
You've got to play pinball.
And put in your earplugs
Put on your eyeshades
You know where to put the caulk
 
Hey you getting drunk, so sorry!
I've got you sussed.
Hey you smoking Mother Nature!
This is a bust!
Hey hung up old Mr. Normal,
Don't try to gain my trust!
'Cause you ain't gonna follow me
any of those ways
Although you think you must
 
Guests:
We're not gonna take it
We're not gonna take it
We're not gonna take it
We're not gonna take it
 
We're not gonna take it
Never did and never will
We're not gonna take it
Gonna break it, gonna shake it,
let's forget it better still
 
Tommy: Now you can't hear me,
your ears are truly sealed.
You can't speak either,
your mouth is filled.
You can't see nothing,
and pinball completes the scene.
Here comes Uncle Ernie to guide
you to
Your very own machine.
 
Guests:
We're not gonna take it
We're not gonna take it
We're not gonna take it
We're not gonna take it
 
We're not gonna take it
Never did and never will
Don't want no religion
And as far as we can tell
We ain't gonna take you
Never did and never will
We're not gonna take you
We forsake you
Gonna rape you
Let's forget you better still.
 
Tommy:
See me.
Feel me.
Touch me.
Heal me.
 
Listening to you,
I get the music.
Gazing at you,
I get the heat.
Following you,
I climb the mountains.
I get excitement at your feet.
 
Right behind you,
I see the millions.
On you,
I see the glory.
From you,
I get opinions.
From you,
I get the story.
(The Who “We're
Not Gonna Take It”)
 
ロマン主義者は「見ること」を重視し、「手」を拒絶する。「視覚は距離感であるが、それは光が彼方からやってくるだけでなく、視力を通して、われわれは遠くのものと関連し、こうしてきたるべきものの警告を受けるということなのである」(ジョン・デューイ『経験としての芸術』)。古代の芸術は「純粋な立体」として外界に向けられている。ロマン主義はそれを内面にふり向けている。古代ギリシア人たちは内面や風景に関心を示さなかった。と言うのも、「善く生きることと、美しく生きることと、正しく生きることは同じだ」からである(プラトン『クリトン』)。今日的な心理学や精神医学から見れば、古代ギリシア人は狂人であろうし、逆に、古代ギリシア人にはロマン主義芸術は理解不可能であろう。宇野は人間と人間や人間と世界の関係を心理で解明することを否定し、精神異常を精神医学や心理学による治療を拒む。だが、宇野の作品は古井由吉の作品のような現象学に基づいた方法論的独我論によって描いて見せるわけではない。精神異常、すなわち狂気は他者との関係に破綻しただけでなく、自分自身とも関係できなくなった自己の状態であり、宇野はそれを具体的なものによってとらえようとしている。
 古代ギリシアでは、図形に関して、ピタゴラスの定理が示しているように、比を重んじていた。三角形は比が保たれていれば、拡大・縮小しても、その形は不変である。三角形の場合、構成する三辺の整数的関係が比である。一方、近代遠近法は図形の比ではなく、大きさを問題にしている。ある三角形において、三辺をそれぞれ三倍にしても、三分の一にしても、比は不変であるが、面積は異なる。これが近代ヨーロッパの数量化である。古代ギリシアでは、図形は対比の問題であり、近代では、倍率の問題である。しばしばギリシアが西洋近代の系譜の起源とされるように、対比と倍率はよく混同される。近代はレンズを最も基礎的な道具である通り、見ること、倍率が問題になる。
 古代ギリシアの芸術は「建築的ないし彫塑的」であるのに対して、宇野は「手でつかむこと」のできない「絵画的」比喩を用いて作品を展開している。内面性を拒絶していても、『枯木のある風景』は、その意味において、古代ギリシア的ではない。しかし、彼にとって、「見ること」は「手でつかむこと」である。遠近法は「手でつかむこと」を「見ること」にすり替えたわけだが、宇野の作品の中の絵画の比喩は、先に述べたように、視覚以上に触覚を強調されている。宇野にとって、「人間の感受性、あるいは言葉と、ものとのあいだ」に「成立させよう」とする「新しい生きた関係」は「見ること」によってはまだ不十分であり、「手でつかむこと」に基づいてようやく宇野の「渇望」は満足に向かう。宇野の「リアリズム」は「手でつかむこと」である。
 フロイトは、『トーテムとタブー』において、内面が登場するには「抽象的思考言語」が不可欠だと次のように述べている。
 
抽象的思考言語がつくりあげられてはじめて、言語表象の感覚的残滓は内的事象と結びつくことになり、それによって、内的事象そのものが次第に知覚されるようになったのである。
 
 「抽象的思考言語」は「手でつかむこと」のできないものである。「抽象的思考言語」は、具体的実在物と違って、現実に対応している必然性は要求されない。「抽象的思考言語」においては、「手でつかむこと」ができないため、思考による確証ができなければ、意識は疑うことをやめないが、「手につかむこと」のできる具体的実在物は知覚との関連から存在を確認できる。具体的と抽象的という区別は、意識がその存在を確信するプロセスによって、決定される。例えば、蜃気楼は「見ること」はできるが、「手でつかむこと」が不可能であるとわかった時点で、それに対する抽象的説明を要する。「見ること」ができても「手でつかむこと」が困難であるのは、サッカーのゴール・キーパーの苦悩が物語ってくれるだろう。「言語表象の感覚的残滓」と「内的事象」との対応の混乱はそもそも内面がなければ起こらない。宇野は「内的事象」、すなわち内面をもたらす「抽象的思考言語」を用いることを拒絶する。彼は平易な単語によって記述する。その世界は、抽象的なものではなく具体的なものとして、ゆったりとした長いセンテンスにより、感触を残して、とどまることなく流動していく。宇野は、その世界において、自分自身との関係をやっととり戻すことができたのである。そう、狂気によっていかなるものとも関係ができないとすれば、狂気そのものと関係を持つことを精神異常から脱出する一つの方策として。
 確かに、ロマン主義文学者は、今日の多くの児童文学者がその一種であるように、極めて平易な言葉を用いるが、彼らの場合、それは音声言語として内面を表出していると信じられているからである。ロマン主義が「抽象的思考言語」を退けることは、感性の重視、すなわち思考することそのものを排除することを意味している。一方、宇野の『枯木のある風景』の場合、やさしいボキャブラリーは具体的に世界を認識し、探求する道具なのである。それは、ロマン主義文学のセンテンスは一様に短いのに対して、想起という行為による彼が長いセンテンスを用いる違いが、端的に、示しているであろう。センテンスの長さが、言うまでもなく、思考しているか否かを即物的に表わすのではない。それがいかに、その作品において、機能しているかによって判断される。二律背反や弁証法といったスタイルをとれば二つ以上の例題を順次提示して批判しなければならない以上、当然、センテンスは長くならざるを得ない。ロマン主義者は具体的な世界に向けて、それについて語るのに対して、宇野は具体的な世界から語っている。
 「鬼」と「夢」という宇野を形容する言葉は彼のあり方が、逆に、断念を知らない単純な人間として憧憬と軽蔑の対象として扱われていることを表わしていることも見逃せない。しかし、宇野が断念を知らないのではなく、彼をそう見なしている人たちが「希望」を持てないだけである。「希望」がありながら、わずか二四歳で逝ってしまったジェームス・ディーンは「君にはこんな経験はないか。つまり、自分のしなくてはならないことが何かあるのがわかっていて、しかしそれは何なのかははっきりつかめない。そんな経験はないかい。おれにわかるのは、何かをしなくてはならないのだということで、それが何なのかよくわからない。時がくればわかるだろうが、おれは本物をつかむまでやるんだ。わかるかい」と言っている。この「経験」はある一つの全体性を持っている。論ずる側が「夢」の感触に触れたことがなければ、いくら「夢」を唱えても、それは空虚であろう。「夢」は因襲的に尊重されている稚拙さでも、感傷的夢想などではない。何を「夢」見るかではなく、いかに「夢」見るかが問われることになる。奇天烈な「夢」が潜在性をア・プリオリに有するわけではない。「夢」は現状の習慣化を妨げ、現実の潜在性を示唆する。「空想」はバベルの言語のごとく本人以外には理解不能で、つねに具現化され得ない。宇野は自分の世界に閉じこもり「空想」ばかりしていたわけではない。「夢」を見ることは「現実逃亡」(矢崎弾『宇野浩二論』)を意味しない。「夢」を見ることができるのは「鬼」ごっこを楽しめる子供だけである。「夢」は潜在性と現実性の融合にほかならない。子供には「希望」が満ち溢れている。子供を非難するものたちはただ挫折と断念によってルサンチマンにとらわれてしか生きられない不幸な大人だけである。挫折や断念に直面しても、宇野はそれを感謝して、「希望」を持ってくる。「希望」はパンドラの箱の最後のものであり、悪徳の中の悪徳である。だからこそ、それがわれわれにとって救いとなる。ジョージ・フレデッリク・ワッツは『希望』という絵画を描いている。そこでは女性がハープに残ったただ一本だけつながっている弦の音を聞き逃さないようにしている。この世の禍いはパンドラの悪ふざけに由来する。悪ふざけには悪ふざけで楽しみ、救いようのないことそのものが救いと感じる宇野だから、「夢」を見ることができたのである。宇野にとって、「夢」はたんに見るだけでなく、「手でつかむ」ものであって、「夢」は生きることへの「希望」と切り離すことができない。
 さらに、「手でつかむこと」は『枯木のある風景』の構成にも、本質的に、かかわっている。『枯木のある風景』はアラベスク調の幾何学模様に構成されているが、プラトンが幾何学から音楽を説明したように、アラベスクは色の音楽である。イスラームはギリシア文化の後継者だったけれども、後者が世俗に対してある種の純粋性を確保していたが、前者は具体的な課題に密着するためにその解決の技術を見出している。アラベスクは代数学的幾何学である。数学者であり、詩人でもあるオマル・ハイヤームは、「代数学は科学的芸術である。その対象は、数および測定値であり、未知なものを既知なものに関連させて定める。また、問題の条件を分析して既知なものに到達する。未知なるものとあたえられたものとの相互関係を知るのが、この芸術である」と言っている。世俗的な日本の大衆歌謡のリズムに基づきながら、宇野の作品が通俗的な文学に陥らないのは、このアラベスクの性質によるところが大きい。宇野の作品が音楽的であることと宇野が「手でつかむこと」を尊重していることとは矛盾しない。古代ギリシアにおいて、建築や彫刻と同様、「見ること」ができないと同時に「手でつかむこと」ができない音楽が貴ばれている。建築や彫刻は固定的・安定的・不変的であるのに対して、音楽は運動的・変化的・無常的である。音楽が、他の芸術に比べて、われわれに訴えやすいのは、それが外界の変化に最も対応できるからにほかならない。外界の変化は急激であることが多く、音楽以外の他の芸術ではそれになかなかついていけない。映画や演劇も変化に対応することができるが、その変化は、主に、視覚的と言うよりは音楽的である。視覚は、光において、かつ光の中で変化を見出すものであるが、光もまた波動としての性質を保有している。波を数学的に表わすのに三角法が使われるが、イスラームにおいて、この三角法が飛躍的に発達している。光の変化は波長の変化にほかならない。たとえ、視覚に障害を持つものも明るい=暗いなどの光に対する反応は可能であるように、聴覚に障害を持っていても、音は波の一種であり、それは振動としてその人を包みこむ。野球などのスポーツも音楽と密接な関係にある。オリンピアの行われた神殿やローマのコロッセウム、スタジアムは音楽の場と化している。聴覚は、触覚が変化を求めたそのとき、触覚と遲逅する。変化はつねに音楽的である。音楽はたんなる振動ではなく、中断をも含んだ変化に富んだ振動である。この変化を「手」でつかもうとすれば、その人の作品は音楽的要素を含有せざるを得ない。宇野は音を「手でつかむこと」を試みていたのである。それは、確かに、「夢」だろう。音を実体として「手でつかむこと」ができるかどうかに頭を悩ませることは有意義ではない。けれども、その「夢」は行為としての潜在性の論議以上に志向性としてのものと了解され得る。音は、そのとき、「手」に感触を残す。それは「夢」の肌触りでもある。耳の聞こえない人の音楽とはそういう感触がある。そのようなプロセスを通じて、「未知なるものとあたえられたものとの相互関係を知る」。宇野の「夢」は「手」による音楽的方向性を志向する「希望」にほかならない。
 宇野が『枯木のある風景』を書いたころ、ヨーロッパでは、エルンスト・ブロッホはマルクス主義やユダヤ神秘主義に基づいて「希望」を語っている。「夜の夢−昼の夢」や「もはや意識されぬもの−いまだ意識されぬもの」、「同時性−非同時性」といった弁証法的なキーワードによって、プロッホは、従来の哲学叙述のスタイルを避けながら、時代を把えようとしている。『希望の弁証法』や『ユートピアの精神』、『希望の原理』に見られる彼の理論は素朴なメシア信仰ではなく、アイザック・ドイッチャーの指摘する「非ユダヤ的ユダヤ人」の「楽天主義」の表明である。ブロッホの叙述スタイルは聖と俗が雑然と同居しているわけだが、希望は、多様な要素がつめこまれたパンドラの箱において希望がそうであるように、弁証法を秘めた契機である。希望が語られるのは大衆文化の勃興と密接な関係にある。大衆文化の雑然とした雰囲気が希望を要求するのであり、希望は見るものではなく「手でつかむこと」に至らなければならない。希望は人格的な関係形成から世界を見る認識学でもないし、約束の地でもない。歴史は希望を目指す理念の弁証法的発展ではない。それは力である。迷宮に迷いこんだとき、そのプロセスをまさに人を楽しくさせる力である。希望には始まりも終わりもなく、過去と現在、未来を同時に肯定する。希望が基づくのは肯定の弁証法であって、希望は肯定をもたらし、いかなる否定よりも強い。あらゆる暴力は希望とは無縁であり、希望は永遠に到達し得ない闘争の原理でである。これに対するのが失望である。絶望は否定の徹底化であって、希望への第一歩であるが、失望は希望を否認する。失望の広がる世界では、人々は「意識されぬもの」を持つのではなく、意識しないふりをする。希望は、知識人の間で、最も軽蔑されるものである。特に、皮肉屋は好んで希望を冷笑する。ラ・ロシュフーコーは、『道徳的反省』で、「希望と怖れとは切り離せない。希望のない怖れもなければ、怖れのない希望もない」とか「希望はすこぶる嘘つきであるが、とにかくわれわれを楽しい小道を経て、人生の終りまで連れていってくれる」と書いているし、シャンドルは、『希望』において、「希望とは何か−−あそび女だ。誰にでも媚び、すべてを捧げさせ、お前が多くの宝物−−お前の青春を失ったときにお前を棄てるのだ」と語っている。彼らはたんに失望し、シニカルな態度をとっているにすぎない。失望は最も厄介な病の一つであり、失望を否定するために、絶望しなければならない。「思うに、希望とは、もともとあるものだともいえないし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。地上には、もともと道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」(魯迅『両地書』)。
 
All the leaves are brown and the
sky is gray
I've been for a walk on a
winter's day
I'd be safe and warm if I was in
L.A.
California dreamin' on such a
winter's day
 
Stopped in to a church I passed
along the way
Well I got down on my knees and I
pretend to pray
You know the preacher liked the
cold
He knows I'm gonna stay
California dreamin' on such a
winter's day
 
All the leaves are brown and the
sky is gray
I've been for a walk on a
winter's day
If I didn't tell her I could
leave today
California dreamin' on such a
winter's day
California dreamin' on such a
winter's day
California dreamin' on such a
winter's day
(The Mamas &
The Papas “California Dreamin’”)
 
 ヴァルター・ベンヤミンの『神学的・政治的断片』によると、ブロッホの『ユートピアの精神』の長所は「神聖政治の政治的意義を否定したこと、宗教的なものの政治的意義、メシア的見解を否定したこと、望みうるかぎりの熱意をもってこれらすべてを否定したこと」である。プロッホは決していかがわしい神秘主義者ではない。ユートピアは諷刺であって、それは直接的な現実描写、あるいは現実に目的論的なパースペクティヴをあてはめる企てではなく、その潜在性を炙り出す方法である。書き手の素朴な願望の告白ではない。ブロッホは、主体においては、いまだ意識しないものを、客体においては、いまだ存在しないものを統一的にとらえる哲学を説く。主体も客体も未完であり、両者の弁証法的運動により歴史は展開する。ブロッホはピタゴラス派を批判するパルメニデスの問いを十分に受けとめる。否定性ではなく、その措定こそが重要である。「有」は有り、「無」は有らぬ。「有」と「無」を同一に考えてはならない。「ただ有るもののみ有る、と言いかつ考えることである」。有るということと考えることが同一であるというパルメニデスの主張はデカルトの「コギト・エルゴ・スム」を先行しているようにも見える。有=無や一=多といった概念を実体としてとらえることは混乱や矛盾の原因になる。そのため、実在性と潜在性というカテゴリーを重要視しなければならない。
 ユルゲン・ハーバーマスは、『マルクス主義者のシェリング』において、ブロッホを「マルクス主義的シェリング」と呼んでいる。これは決して見当はずれではない。「自我がすべてである」というフィヒテ的見解に対して、「すべてが自我である」とシェリング的哲学者なら答えるだろう。シェリングは、ヘーゲルが絶対的観念論として完成させた総合的体系の構成要素の多くを先取りしている。ヘーゲル哲学を「消極哲学」と批判し、自らの立場を「積極哲学」と定義したシェリングは問題を顕在化させることは得意だったが、それをまとめあげたり、掘り下げていくことはまるで苦手である。何人かのマルクス主義者は、ヘーゲル批判として、その体系からシェリングを引き出している。それは、ベルリン大学でシェリングが行った講義の数少ない出席者の一人フリードリヒ・エンゲルスの『反デューリング論』に隣接してくる。エンゲルスは、『反デューリング論』において、「社会はこれまで階級対立のかたちで動いてきたが、ちょうどそれと同様に、モラルはつねに階級モラルであった。モラルは支配階級の支配と利益とを弁護するか、あるいは、被支配階級が十分な力をもつようになるとただちにこの支配にたいする反抗と被支配者たちの未来の利益とを代表するか、どちらかであった」と指摘している。ゼーレン・キルケゴールやミハイル・バクーニンもその講義の出席者である。反ヘーゲルの試みの一つの流れはシェリングに端を発している。シェリングによれば、自然哲学と精神哲学は芸術哲学に基盤を置いた「知的直観」によって統一される。ルター派の聖職者になるべく神学校に通っていたシェリングにしても、ヘーゲルにしても、ゲルリッツの靴工ヤーコプ・ベーメの神秘主義的な神智学的思想に関心をよせていたこともあって、いささか神秘主義的な面がないわけではない。神秘主義を切り捨てるのではなく、ブロッホのように、それに精通し、反ファシズムに動員する必要がある。フレデリック・ジェイムソンは、『弁証法的批評の冒険』の中で、プロッホの唯物論がゲーテの対象的思惟の源泉を確信するところで成立していると指摘している。ブロッホの作品は、ゲーテと同様、百科全集的で非体系的包括性を帯びている。希望の弁証法は意識的な記憶と無意識的な記憶、回想と現前、想像と知覚といった要素のアラベスク構造、「混合酒」を持っている。どれかが欠けても、希望は失望へと堕してしまう。多層的な弁証法は非常に生産的である。希望は、絶望の契機を通ることにより、そこに含んでいた反動的要素を還元した形で出現する。カクテルには蛍光色が少なからずあり、蛍光はある波長の光を違う波長へと変換する光の反応のことである。アメリカの禁酒法時代、カクテルが謳歌しているが、カクテルは以前からあったが、手に入る酒は質が悪かったため、個人で開催するホーム・パーティーでもお客に何とか味わえるようにと、カクテルがいろいろ考えられている。H・E・メンケルはカクテルの組み合わせを一八七億六千万以上あると計算している。思わず、バーブ佐竹の『カクテル小唄』を口ずさんでしまいそうだ。フランキー堺の『やっとん節』も、その後に、続けて歌いたい。「それゆえ、われわれのスローガンは次のようでなければなりません。すなわち、教義によってではなしに、神秘的な、それ自身不明瞭な意識−−たとえそれが宗教的なかたちで現われようと、政治的なかたちで現われようと−−を分析することによって意識を改革するということです。そうすれば、世人がずっと以前から、ある事柄について夢をもっていたこと、そしてその事柄を現実的に手にいれるためには、ただそれについての意識をもちさえすればよいことが明らかになるでしょう。肝要なのは過去と未来との間に一本の大きな線を引くことではなくて、過去の思想を完成することであるということが明らかになるでしょう。結局、人類はどんな新しい仕事を始めるのでもなく、意識をもって自分の古い仕事をやり遂げるのだということが明らかになるでしょう」(マルクス『一九四三年九月ルーゲ宛書簡』)。
 具体的・弁証法的な希望を宇野はその「手」でつかまえる。希望は神話と言うよりもメルヘンである。メルヘンは神話的な力への小さな抗いである。運命ではなく、そのとき、歴史が始まる。神話は死を語るが、メルヘンは生をささやく。メルヘンと言っても、『少女人形』を歌っている伊藤つかさにペンライトを振ったり、「L・O・V・E、つかさちゃーん」のかけ声を叫ぶことではない。ちなみに、『笑っていいいとも』のテレフォン・ショッキングは、もともと、伊藤つかさにつなぐという企画から始まっている。メルヘンは抑圧された過去が未来へと出口を求める運動である。宇野の私小説はメルヘン、ユートピアである。イデオロギーに近づくにはユートピア的契機が不可欠である。ブロッホだけでなく、ヴァルター・ベンヤミンテやオドール・アドルノ、ユルゲン・ハーバーマスなどフランクフルト学派は希望を求めている。宇野の私小説は、本人が意識していようといまいと、当時蔓延しつつあったヘーゲル主義的イデオロギーに対する批判の機能がある。宇野の「私」はシェリング的自我である。ユートピアに関する意識がなければ、イデオロギーは無自覚的に反ユートピアにすり替えられる。ヘーゲル哲学はその危険をつねに秘めており、ヘーゲル主義的マルクス主義者はそれに陥ってしまう。失望は希望を弾圧し、神話を希求する。宇野はメルヘンに迷いこんで、その出口を探し求めている。しかし、彼はそれが長く続くことを願っている。迷宮をさすらい、夢見ながら、自分自身を発見する。「出口なし」は一つの恐怖だが、出口がなければ、それに甘んじよう。「出口なし」は追放の暴力を意味する。宇野は追放されることを厭わない。ニヒリズムの極限化した状況では、いかなる哲学も希望たりえない。希望を拒み、失望に浸り続けるのも、ニヒリズムを十分に受けとめていないだけだ。希望においては、何を求めるかではなく、いかに求めるかが大切になる。希望は内容ではなく、姿勢の問題である。希望は未来を期待することでも、現在・過去を否定するものでもない。希望は反動に対するレジスタンスである。自分の知らない希望もあるのだという自覚が必要だ。希望は一つではない。万人に共通でもない。希望は明日にあるわけではない。明日がよりよい日だという進歩史観と希望はあまり関係がない。希望は自分の知らない希望もあるという認識である。宇野は自分自身に忠実であることを最上のものとしている。「現在、われわれはいきつくところまでいったように思える。今や希望を持つことが許されるだろう」(サルトル『レジスタンス、フランスと明日の世界』)。
 『枯木のある風景』にはそんな宇野の盲目的な生きることへの「希望」にあふれているのである。それは必ずしも幸福そうには見えないが、空虚でもない。宇野にとって、文学は職業ではなかった。この凡庸なる時代において、それを使命とまで考えていた。なぜ書くのかという問いには、登山家のように、ただこう答えるだけだったろう。「そこに言葉があるから」。宇野の私小説は高度な批評性を秘めたユートピアのような諷刺である。直接的な体験の吐露ではない。宇野が「希望をもって思い立った」のは、その言葉を用いた『蔵の中』ではなく、『枯木のある風景』である。『枯木のある風景』において、回想と体験は類似しているが、すべてが思うようになってきた精神的には未熟な素朴なものの場合とは違って、決して同一ではない。けれども、自分の思うようにならないという真理によって、われわれは年をとり、それに惰性的になるとき、生を磨り減らしていくのだが、宇野が選びとったのはその真理を拒むことである。彼は別の真理を受け入れ、年をとるのをやめた。しかし、それは退行ではない。子供のように、肉感的な感触を大事にして生きるということを意味している。『枯木のある風景』以後の作品ではそこで用いられた手法は影をひそめてしまう。しかし、それは一つの踏ん切りであるから、二度も使う必要はない。さもなければ、年をとるにつれて、自らの手法に溺れてしまうことになってしまう。従って、センテンスが長いのは考えるのが遅いからではなく、また語彙が平易なのは考えるのが素朴だからではなく、それは一つの具体的で肉感的な世界を指し示す「写実」である。または、それははかなく壊れやすい大切な現実の比喩、はかない現実を生きることへの「希望」の比喩である、と言ってもさしつかえない。「見ること」だけではいつでも一度粉々になってしまった現実は再び壊れかねず、「手」でつかみ、そのぬくもりによって励まさなければならない。その「希望」を嘲笑することや失笑することは誰にも許されない。そこには何の自己倒錯も自己欺瞞も、シニシズムもないのだから。宇野が描いたのは文学の希望ではなく、あくまで希望の文学である。『枯木のある風景』は宇野浩二のそうした生への「希望」がこめられた作品にほかならない。
〈了〉